城内稲荷

城内稲荷白狐伝説
当時の長岡城の築城責任者・奥村が、ある新雪の積もった朝に、一匹の白狐を発見しました。その白狐の口には長い芋(麻)の皮をくわえており、それを引きずりながら新雪の中を歩きまわっていました。よく見るとその歩いた跡が、兜の形をしていた事から、奥村はそれをもとに長岡城の構えを兜のかたちにしました。
以後、長岡城は通称・芋引形兜城と呼ばれるようになり、この城内稲荷はそんな築城伝説から、この白狐を祀ったものと言われています。


城内稲荷

手水鉢(左)と賽銭入れ(右)の写真
手水鉢
明治24年頃から石油取引が盛んになり、その株式仲買人が奉納したものです。
賽銭入れ
作者は西神田にあった根岸鋳造所の職長・鍔渕長次郎で大正末期に製作されました。

長岡城跡〜二の丸跡〜

長岡城は元和4年(1618)、堀直竒の築城を継承した牧野忠成によって完成したもので、約250年間移城しました。その後戊辰戦争(1868)の際に、長岡藩は、明治政府の藩の中立を求めるように要請するが明治政府はこれを拒絶。長岡藩は家老河井継之助指揮のもとで、一度落城した城を奪還するなどの奮戦を見せるが、結局落城して城は見る影もなく取り壊されてしまいます。現在は史跡(長岡城跡二の丸跡)でしか見る事はできませんが、今でもなお河井継之助の精神は、長岡の人々によって大切に受け継がれています。
長岡城跡の隣には、長岡城築城伝説を祀る城内稲荷があり、現在のJR長岡駅前のロータリーには本丸跡があります。


長岡城跡〜二の丸跡〜
長岡城歴史
1617(元和3) 堀直竒が築城開始
1618(元和4) 牧野忠成が入封、長岡城を完成させ、以来牧野氏の居城となる
1781(天明元) 9代藩主・牧野忠精が蒼紫(あおし)神社を築き、悠久山と命名
1868(慶応4) 戊辰戦争で焼失、その後廃城
1919(大正8) 蒼紫神社一帯を公園化
1968(昭和43) 悠久山公園内に長岡市郷土資料館開館

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宝田公園

大正14年に当時宝田石油があった跡地に、公園を建てたことから名前が宝田公園になりました。昭和39年5月、新潟国体の会場となった厚生会館前の宝田公園にシンボルとして噴水が完成。翌年6月に設置された群像とともに、以来長岡の中心地を訪れる人たちに親しまれています。


城内稲荷

米百俵の碑

戊辰戦争後、焼野原となり極度に窮迫していた長岡藩に支藩の三根山藩から、米百俵が見舞いとして送られてきた。米の配分は大参事の小林虎三郎にまかされ「この米を1日か2日で食いつぶして何が残る。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ。明日の長岡を考えろ」と説いた。かくしてここに、長岡の近代教育の土台が築かれたのである。

昭和50年(1975)に長岡市は小林虎三郎没後100年を機に、小林虎三郎の生んだ米百俵の精神を思い起こし、国漢学校跡地(現在の大和デパート前)に「米百俵之碑」を建設しました。現在でもその志は、毎年10月に行われる「米百俵祭」として、受け継がれています。


城内稲荷

城内稲荷

小林 虎三郎
文政11年(1828)8月18日生まれ。 23歳の時、藩主の命で江戸に遊学、佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松蔭)とともに「二虎」と称せられる。長岡が戊辰戦争に敗れた翌明治2年に、国漢学校を開校。同年に文武総督さらに大参事に推挙される。米百俵が送られてきたのは、その翌年のことである。明治10年、湯治先の伊香保で熱病にかかり死去。享年50歳であった。


米百俵の碑

国漢学校は、明治4年・小学校令により廃校となりました。

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